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どうもありがとう [よしなしごと]

日曜日。
金曜は朝5時半から勤務について社用の宴会の2次会までで未明の帰宅。(しかも幹事でもない飛び入りの僕がなんで2次会の支払いやってんだ・・・みたいな)
土曜は朝7時から23時までの勤務。(まぁ電車で帰れただけ良かったと言えば良かったが)

それが祟ったか、午前中は起き上がれず、しかも頭も痛いときたもんだ。ということで、消防団の訓練は御免なさいさせていただきました。

そしてお昼下がりには、なんとか再び起き上がり、まだ頭の重いのを引きずりつつ、横浜に向けて出立。
こちらは、なんとか、這ってでも行くべしと、たどり着いたのは神奈川県民ホール。

敬愛する佐野元春さんのライブです・・・単身で。

60代も半ばを過ぎても新たな音楽を次々と作り出している元春さんに励まされ。同時に、懐かしいナンバーの数々に、それを聞いていた頃の自分を思い出しながら、その頃があるから今があるのだと、胸を熱くしての2時間半でした。

元春さんのライブでは、いつもそうなのですが。
その歌声に触れるたび、特に中学生や高校生の頃の、何気ないワンシーンが頭に浮かんでくるのです。

学校の帰りにアルバムを買って、大事に自転車の前カゴに置いて、そのアルバムが落ちたりしないよう、いつもは急いでペダルを踏んで帰るのに、慎重に運転して帰っていたこと。その帰り道の田園風景。家から帰って、まずはアルバムジャケットを、愛おしくながめた、居間のコタツの布団の赤い色。レコードに針を落とす瞬間の高揚感。それを聞いていた自分の部屋の緑色のカーペット。寝転がって聞いていたベッドの感触。とにかく、特別じゃない、日常の僕の生活の風景が頭に浮かんでは消え浮かんでは消えていきます。

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それだけ、日常が元春さんの歌とともにあったということなんだろうなと、いつも、そんな同じことを思いながら、ライブの会場をあとにします。

その頃の自分を思い出すことは、自分の今における原点、初心をおもいだすことです。そのころから、僕は放送局の仕事を志して、そのためには何をしたら良いんだろうなんて考えながら、何も出来ずにいました。ただ、とにかく、家を早く出ていきたかった。こんな家、出て行って、早く一人で暮らしたい、東京で。そんなことばかり考えていた。でも、いまは、そんな故郷がたまらなく愛おしい。不思議なものです。

ステージ上の元春さんの姿を追いかけながら、そんな昔と今を行ったり来たりの時間旅行。それで日々の憂さを忘れることはできませんが、よし、その憂さに負けることなく・・・というより、憂さも受け入れながら、自分の思う道を歩んでいこうという気持ちを僕は新たにするのです。

佐野元春さんの歌に出会えたこと、こうして、佐野元春さんの姿を今も追いかけられることに・・・どうもありがとう。

そして、また。
きょうも朝の5時半から僕は職務に就くのです。




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指揮者といふこと [よしなしごと]





消防団のポンプ操法の訓練に捧げた週末。
私の役目は「指揮者」です。
これまで恥ずかしながらワタクシ、「指揮者」とは、この訓練上の役割に過ぎないと思っておりました。
しかし、いざ訓練が始まると、訓練の初め終わりの礼式の整列から号令を担うほか、目標にむけて、また各団員の習熟を勘案しながら訓練の内容を起案し実施するなど、消防団の活動においても「指揮」を求められております。
自分の訓練もさることながら、そちらも、鍛えられております。
それに、ワタクシは所属する団においては、その受け持ち地域に住んでいる身ではなく、その地域で働いているに過ぎない「勤務地団員」という立場です。そんなワタクシに「指揮者」という任を与えてくださった地域の皆さんには「感謝」の一言しかありません。

さて、この消防団伝統のポンプ操法訓練。
昨今、なにかと批判の的にもなっているようです。
全隊員の揃っての動作が厳しく重んじられる場面があるほか、台車を搬送する時の手の掛け方、あまつさえ、その指の位置や伸ばし方まで審査の対象になっている。あるいは待機にせよ実際の動きの中で細かい立ち位置までも決められているほか、止まっているにせよ動くにせよ、足の角度から指先まで指摘が入る細かい規律。
それらの多くが、実際の消火活動には必要ないものなのではないかというご意見です。中にはこれらを「儀式」と称するものもある。

それについては、正しい見方でもある反面、あまりに短絡的な見方のようにも、実際、この訓練に関わっているものとしては思います。

一つ一つの動作に関しては、それだけを見れば、確かに実際の消火活動に必要なものばかりではありません。
しかし、訓練で各団員と息の合う動きができるか否かは、実際に現場に出たときに互いの意思疎通が可能か否かにも通じるものがあります。それが出来ている隊の動きは、間違いなく、出来ていない隊よりも安全かつ迅速に消火活動が進むはずです。指示を大きな声で明瞭に出すこと、それを受けたことを明瞭に返すことも然り。
細かく指摘される動きについては、ポンプの操作はもとより、ホースを担ぐ、筒先を持って火点に水を当てて消火するといった各々の目的に対して、長い年月で研究された最も合理的なものが反映されているものとワタクシは理解しております。
もちろん、活動の現場は多種多様ですから、同じ動きが必ずどこでもできるとは限りません。ただ、その最も合理的な動きが出来ることが、あらゆる動きの原点になることは間違いないことかと思料します。

さらに、防災にかかる活動は専門の集団の力だけではなく、それに属さない(一般の)方々の協力も重要です。

では、そういう一般の方々に信用していただく、または、一旦緩急のときに協力していただくには、どうすれば良いのか。
駆け足にしても気を付けにしても、その大げさに見える動作、一糸乱れぬ姿に関しても、十分に訓練された姿を時に及んで披露することには一定の価値があると思うのです。
メリハリのない行動をしている集団が協力を呼びかけたところで、はたして、その周りの人たちは街の安全をそんな彼らに任せられるでしょうか。安心感を持てない集団を信用して協力をして下さるでしょうか。

そもそも、こうした大会への取り組みが間違っていることがあるとすれば、訓練そのものが目的になりがちだということだと思います。

ポンプ操法の大会で優勝することこそが唯一の目的であるということになると、その訓練は「儀式」への対応にしか過ぎないものになってしまうと思うのです。
その先にある、訓練はあくまで訓練であり、これをいつ来るかはわからないが、実際に活動する現場で訓練の成果を発揮することこそが目的だということを忘れないことだと思います。

それが、ポンプ操法訓練に対する批判が正しくもあり短絡的でもありとワタクシが思うところです。

と偉そうなことを言いながら、ワタクシ自身、指揮下にあった選手でポンプ操法の訓練や大会に出場していたときには、なんでこの場面で指の曲がりを指摘されなきゃいけないんだ??あるいは、この大げさな号令は必要か??みたいに、思っていたことがありました。
これまで書いてきたような、訓練に求められるものを自分なりに考え、自身にも問いかけてみるようになったのは、この「指揮者」の任をおびてからのことです。

消防団は、いろんな立場、さまざまな考え方を持つ方の集団です。
だから、訓練はおろか、消防団に対する思いや方針も、皆さんそれぞれに持っていらっしゃいますので、それを統一するのは難しいと感じることがしばしばです。
ただ、そうでありながら「街の安全を守りたい」というその目的は誰もが共通に持っていらっしゃるものとワタクシは信じています。それこそが唯一かつ最も大切な消防団員としての真理であり、それを訓練を通じて高めていくことこそが必要なのではないかと思いながら、これからも「指揮者」としての役割を果たしていきたいと強く思っています。

それに、考えてみれば、この消防団の訓練、さらに「指揮者」の立場は、指導を担っている毎週の同好会での稽古に通じるところが多分にあります。同好会での稽古を消防団での訓練に活かすことができると同時に、消防団での訓練で得たものを同好会の稽古に活かすことも出来るのは間違い無いでしょう。



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変わる駅 [よしなしごと]

僕の家の最寄駅。


ホームに何やら工作の跡が。


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これこの通り


ホームドアがようやく設置されるようです。


公共交通機関さん、新コロ禍で減った乗降のお客さんが戻ってきているとはいえ、往時に比べればまだまだでしょうに、安全向上への設備投資に余念がないのは、当然と言えば当然のことなのでしょうけど、頭の下がる思いです。






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