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長恨歌??? [ふるさと]

何気ないことで故郷の友だちに、SNS上の通信システムを使って連絡をしました。


折からの新型コロナウイルス感染症の広がりは、故郷の岡山でますます酷い。ついに先日、蔓延防止措置が適用されてしまいました。
年末年始に帰らぬ方がいいと言われ、半年が過ぎ、その時よりも更に故郷が遠ざかった気がします。このまま岡山には帰れないんじゃないかという気持ちもおきてきます。


そんな話をするために連絡したのではないけれど、こんな中ですから、どうしても話はそんな方向に。
お友だちと遣り取りをしていると、地元の景色が頭に浮かんできます。・・・そんな特別なものではありません。かつての日常のそれは、意識をしたことも無いのに、目に焼き付いている。
前をさんざん通ることはあっても入ったことが無い病院の看板だったり、よどんだ用水路だったり、そこにかかる小さなコンクリートの橋だったり。
全く愛でるようなものではないのに、はっきりと脳裏に浮かんでくる、それらの幻影には胸が締め付けられるようでした。だって、次にいつ見ることが出来るかわからないから。


それに対して、お友達が話の結びに投げかけてくれた「ふるさとは逃げないから」という言葉が嬉しかった。


話は飛びますが・・・
僕は、小学校を卒業して、そのまま地元の中学校に行くことなく、全国から生徒が集まってくる私立の中学・高校の一貫校に進学しました。そして浪人するため東京に出てきて、そのまま大学から社会人となり今に至ります。
だから、ずっと地元の友人とは疎遠でした。一人転校していったようなものです・・・家はそのままあって、そこに住んでいたけれど、努めて地元の友と交わらなかったから。
受験の重圧でしょうか・・・それも無かったことは無いでしょうが。地元のお友達に声をかけても、一人別の道を選んだ人間のことを、みんなすぐに忘れてしまっているんじゃないだろうか。そんな扱いを受けたら僕は傷ついてしまうだろうなんて、勝手に思っていたんでしょう。その当時は、私立の中学校に進学するなんて言う選択をする人間は、そのあたりでは希少だったし、自分は違う世界の人間になってしまったんだなんて・・・まぁ若気の至りとはいえ、なんと僭越な考え。


それから何年・・・社会人になって30歳を過ぎて暫くたった時のお正月だか夏だったか忘れたけど。
実家に帰って、ふと思ったのです。
今や生活の中心は東京だし、この実家が無くなったら、僕のふるさとは同時に無くなってしまうのかね、これからどんどん薄れていくであろう記憶以外には・・・なんて。
今や、岡山のこの地と僕を結び付けているものは、この家とそこに住む家族だけじゃないかと。
思い立って、当時黎明期だったインターネット(まだ繋ぐとピーガー鳴る電話回線)や妹の持つ情報などを駆使して、かつての友だちを探してみました。
それなりの苦労はあって、これを書けば、また長くなるので省きますが、そのうちやっと一人、二人と連絡をとれるようになり、そうして、そこからまた、そういうお友だちの情報から、また1人、さらにまた1人と連絡が取れるようになって。今では、岡山の実家に帰れば、地元のお友だち10人や20人みたいな宴会が開けるようになりました。
僕のことなんて忘れているだろうなんていうのは、取り越し苦労で、むしろよく覚えてくれている。会っていきなり「声が変わっとる!」なんて言われたこともあります。
自分ですら忘れている、声変わりする前の声を覚えていてくれたのか・・・みたいな驚き。
そんな宴会では、幼いころのことから今のことまで、気兼ねなく何でもお話しできます。みんなそれぞれ大人になって、仕事について、嫁に行って姓も変わった人もいる。でも、その奥には、小学生のころの面影がはっきり見えます。


その多くの地元の友だちのおかげで、僕のふるさとは決して無くなるなんてことは無いと確信し今に至ります。
だからこそ「ふるさとは逃げない」という言葉が、余計に胸を打ったのでしょう。


その遣り取りが終わって、その日は、定例の同好会の稽古日だったので、道場に行って稽古をしてきました。稽古が終わって自席に戻ってきたら、もう真っ暗で誰もいない。
一人で広いオフィスに佇んで、こんなことを書いていると、涙が浮かんできました。


そんなに大げさなことかぁ・・・稽古で前蹴りをまともに受けて頭でもおかしくなったのかも。生徒さんの前蹴りがカウンター気味に入って情けなく後ろに転んじゃったし・・・それなりに恥ずかしかったからなぁ。


夜景.jpg
外は雨でした


そうでなくても暗い街がさらに暗いのは雨に煙っていたからです。決して私の涙のせいではありません。


長い長い駄文でしたね。




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