記念の日 [ふるさと]
4月10日は僕の記念日。
昭和63年・・・僕は岡山を離れて東京に旅立った。
岡山は瀬戸大橋の開通がトップニュース。
僕の人生の転換点・・・転換かどうかは分からないけど、大きく未来を変える一歩だったと今でも思います。
昭和63年・・・僕は岡山を離れて東京に旅立った。
岡山は瀬戸大橋の開通がトップニュース。
僕の人生の転換点・・・転換かどうかは分からないけど、大きく未来を変える一歩だったと今でも思います。
故郷にも [ふるさと]
故郷を通り過ぎて西へ西へ足を進めたワタクシ。
最終的には故郷で何日か過ごしました。
とくに何をするでもなく、ただ、実家で過ごす。
実に貴い時間です。
勤続30年を無事に迎えられた報告と、その礼を両親に出来たことこそ喜ばねばなりません。
どうか、いつまでも元気で。
最終的には故郷で何日か過ごしました。
とくに何をするでもなく、ただ、実家で過ごす。
実に貴い時間です。
勤続30年を無事に迎えられた報告と、その礼を両親に出来たことこそ喜ばねばなりません。
どうか、いつまでも元気で。
高いトコロから失礼 [ふるさと]
休みの行事の2つ目は西方行。
岡山の上を通り過ぎてさらに西へ西へ。
飛行機の中から故郷の様子が望めました。
地図と同じ・・・当たり前だが
この湖や川や内海、さらに湾、それに伴う半島や平野・・・
この形を眺めていると飽きないのです。
でも、あっという間に飛行機はその上を通り過ぎて行ってしまいましたけど。
岡山の上を通り過ぎてさらに西へ西へ。
飛行機の中から故郷の様子が望めました。
地図と同じ・・・当たり前だが
この湖や川や内海、さらに湾、それに伴う半島や平野・・・
この形を眺めていると飽きないのです。
でも、あっという間に飛行機はその上を通り過ぎて行ってしまいましたけど。
故郷の花 [ふるさと]
といっても、岡山の話じゃないのですが。
私が屯所としている霞ケ関のお役所の玄関の両脇にあるモモノハナが満開です。
ほらこのとおり
なかなか壮観・・・去年に続いて二度目のモモノハナに迎えられる春。
なので、サクラに先立って満開になるのを楽しみにしておりました。
期待通りの美しさ。
私が屯所としている霞ケ関のお役所の玄関の両脇にあるモモノハナが満開です。
ほらこのとおり
なかなか壮観・・・去年に続いて二度目のモモノハナに迎えられる春。
なので、サクラに先立って満開になるのを楽しみにしておりました。
期待通りの美しさ。
走る岡山! [ふるさと]
そうそう、この日曜のこと。
大阪国際マラソンで、岡山の天満屋女子陸上競技部所属の前田穂南さんが、日本新記録で優勝しました。
あっぱれ!!!
津山のスーパー高校生ドルーリちゃんだけじゃない、陸上王国岡山。
とはいえ、前田選手・・・兵庫の尼崎のご出身みたいですけどね。
大阪国際マラソンで、岡山の天満屋女子陸上競技部所属の前田穂南さんが、日本新記録で優勝しました。
あっぱれ!!!
津山のスーパー高校生ドルーリちゃんだけじゃない、陸上王国岡山。
とはいえ、前田選手・・・兵庫の尼崎のご出身みたいですけどね。
うまし国 [ふるさと]
岡山のイトコが瀬戸内、それも岡山の日生(ヒナセとよみます)産のカキを沢山おくってくれました。
カキ・・・貝の方です、果物じゃ無くて。
とかく、瀬戸内ではカキといえば広島の名前が挙がりますが、岡山もなかなかの産地なのです。それは知っていたのだけど、この日生のカキ、実に美味しかった。
年の初めにして一年分いただいた感
豊かな岡山が産んだ宝です。
素敵な故郷を再確認させてくれました。
カキ・・・貝の方です、果物じゃ無くて。
とかく、瀬戸内ではカキといえば広島の名前が挙がりますが、岡山もなかなかの産地なのです。それは知っていたのだけど、この日生のカキ、実に美味しかった。
年の初めにして一年分いただいた感
豊かな岡山が産んだ宝です。
素敵な故郷を再確認させてくれました。
岡山の誇り [ふるさと]
春の高校バレー
岡山代表の就実高校が見事優勝を飾りました。
優勝はもう5回目になるそうです・・・すごいなぁ。
テレビ画面を撮っちゃった
前の年の大会は、新型コロナウイルスの検査で、選手の方に陽性が認められたとかで、し合いすら出来なかったのですよね。
気持ちの落ち込みは大きかったに違いありませんが、そこから、よく今回の結果を導き出しました。
それも含めて天晴れ岡山の誇りです。
岡山代表の就実高校が見事優勝を飾りました。
優勝はもう5回目になるそうです・・・すごいなぁ。
テレビ画面を撮っちゃった
前の年の大会は、新型コロナウイルスの検査で、選手の方に陽性が認められたとかで、し合いすら出来なかったのですよね。
気持ちの落ち込みは大きかったに違いありませんが、そこから、よく今回の結果を導き出しました。
それも含めて天晴れ岡山の誇りです。
夏の高校野球 [ふるさと]
ことしの故郷の代表校は「おかやま山陽」高校。
もう故郷を離れて35年も経っているせいもあって、そんな高校あったっけ・・・といった感です。調べてみると古くからある学校みたいなので、僕が岡山を離れてから出来たわけではない様子。
ただ、高校野球の代表校になることはもとより、それに絡むことも、僕が高校生だった頃までには無かったので、どこにある学校かもわからない。しかも、ユニフォームが真っ赤なアンダーシャツに真っ赤な文字にと、ここまで目立てば知らないってことも無かろうに、全く、ピンとこないのです。
なので、今ひとつ、地元の代表といった親近感を持つことが出来ず、漫然と結果だけ気にしておりました。
そうしたら、あれよあれよでベスト8にまで残っての大活躍です。
ここまで来たら、あと、もう一踏ん張り、岡山県人の期待を背負って活躍してほしいなぁ。
・・・なんて勝手なものですね。
漫然とではなくて、次はしっかり応援しよう。
もう故郷を離れて35年も経っているせいもあって、そんな高校あったっけ・・・といった感です。調べてみると古くからある学校みたいなので、僕が岡山を離れてから出来たわけではない様子。
ただ、高校野球の代表校になることはもとより、それに絡むことも、僕が高校生だった頃までには無かったので、どこにある学校かもわからない。しかも、ユニフォームが真っ赤なアンダーシャツに真っ赤な文字にと、ここまで目立てば知らないってことも無かろうに、全く、ピンとこないのです。
なので、今ひとつ、地元の代表といった親近感を持つことが出来ず、漫然と結果だけ気にしておりました。
そうしたら、あれよあれよでベスト8にまで残っての大活躍です。
ここまで来たら、あと、もう一踏ん張り、岡山県人の期待を背負って活躍してほしいなぁ。
・・・なんて勝手なものですね。
漫然とではなくて、次はしっかり応援しよう。
長恨歌??? [ふるさと]
何気ないことで故郷の友だちに、SNS上の通信システムを使って連絡をしました。
折からの新型コロナウイルス感染症の広がりは、故郷の岡山でますます酷い。ついに先日、蔓延防止措置が適用されてしまいました。
年末年始に帰らぬ方がいいと言われ、半年が過ぎ、その時よりも更に故郷が遠ざかった気がします。このまま岡山には帰れないんじゃないかという気持ちもおきてきます。
そんな話をするために連絡したのではないけれど、こんな中ですから、どうしても話はそんな方向に。
お友だちと遣り取りをしていると、地元の景色が頭に浮かんできます。・・・そんな特別なものではありません。かつての日常のそれは、意識をしたことも無いのに、目に焼き付いている。
前をさんざん通ることはあっても入ったことが無い病院の看板だったり、よどんだ用水路だったり、そこにかかる小さなコンクリートの橋だったり。
全く愛でるようなものではないのに、はっきりと脳裏に浮かんでくる、それらの幻影には胸が締め付けられるようでした。だって、次にいつ見ることが出来るかわからないから。
それに対して、お友達が話の結びに投げかけてくれた「ふるさとは逃げないから」という言葉が嬉しかった。
話は飛びますが・・・
僕は、小学校を卒業して、そのまま地元の中学校に行くことなく、全国から生徒が集まってくる私立の中学・高校の一貫校に進学しました。そして浪人するため東京に出てきて、そのまま大学から社会人となり今に至ります。
だから、ずっと地元の友人とは疎遠でした。一人転校していったようなものです・・・家はそのままあって、そこに住んでいたけれど、努めて地元の友と交わらなかったから。
受験の重圧でしょうか・・・それも無かったことは無いでしょうが。地元のお友達に声をかけても、一人別の道を選んだ人間のことを、みんなすぐに忘れてしまっているんじゃないだろうか。そんな扱いを受けたら僕は傷ついてしまうだろうなんて、勝手に思っていたんでしょう。その当時は、私立の中学校に進学するなんて言う選択をする人間は、そのあたりでは希少だったし、自分は違う世界の人間になってしまったんだなんて・・・まぁ若気の至りとはいえ、なんと僭越な考え。
それから何年・・・社会人になって30歳を過ぎて暫くたった時のお正月だか夏だったか忘れたけど。
実家に帰って、ふと思ったのです。
今や生活の中心は東京だし、この実家が無くなったら、僕のふるさとは同時に無くなってしまうのかね、これからどんどん薄れていくであろう記憶以外には・・・なんて。
今や、岡山のこの地と僕を結び付けているものは、この家とそこに住む家族だけじゃないかと。
思い立って、当時黎明期だったインターネット(まだ繋ぐとピーガー鳴る電話回線)や妹の持つ情報などを駆使して、かつての友だちを探してみました。
それなりの苦労はあって、これを書けば、また長くなるので省きますが、そのうちやっと一人、二人と連絡をとれるようになり、そうして、そこからまた、そういうお友だちの情報から、また1人、さらにまた1人と連絡が取れるようになって。今では、岡山の実家に帰れば、地元のお友だち10人や20人みたいな宴会が開けるようになりました。
僕のことなんて忘れているだろうなんていうのは、取り越し苦労で、むしろよく覚えてくれている。会っていきなり「声が変わっとる!」なんて言われたこともあります。
自分ですら忘れている、声変わりする前の声を覚えていてくれたのか・・・みたいな驚き。
そんな宴会では、幼いころのことから今のことまで、気兼ねなく何でもお話しできます。みんなそれぞれ大人になって、仕事について、嫁に行って姓も変わった人もいる。でも、その奥には、小学生のころの面影がはっきり見えます。
その多くの地元の友だちのおかげで、僕のふるさとは決して無くなるなんてことは無いと確信し今に至ります。
だからこそ「ふるさとは逃げない」という言葉が、余計に胸を打ったのでしょう。
その遣り取りが終わって、その日は、定例の同好会の稽古日だったので、道場に行って稽古をしてきました。稽古が終わって自席に戻ってきたら、もう真っ暗で誰もいない。
一人で広いオフィスに佇んで、こんなことを書いていると、涙が浮かんできました。
そんなに大げさなことかぁ・・・稽古で前蹴りをまともに受けて頭でもおかしくなったのかも。生徒さんの前蹴りがカウンター気味に入って情けなく後ろに転んじゃったし・・・それなりに恥ずかしかったからなぁ。
外は雨でした
そうでなくても暗い街がさらに暗いのは雨に煙っていたからです。決して私の涙のせいではありません。
長い長い駄文でしたね。
折からの新型コロナウイルス感染症の広がりは、故郷の岡山でますます酷い。ついに先日、蔓延防止措置が適用されてしまいました。
年末年始に帰らぬ方がいいと言われ、半年が過ぎ、その時よりも更に故郷が遠ざかった気がします。このまま岡山には帰れないんじゃないかという気持ちもおきてきます。
そんな話をするために連絡したのではないけれど、こんな中ですから、どうしても話はそんな方向に。
お友だちと遣り取りをしていると、地元の景色が頭に浮かんできます。・・・そんな特別なものではありません。かつての日常のそれは、意識をしたことも無いのに、目に焼き付いている。
前をさんざん通ることはあっても入ったことが無い病院の看板だったり、よどんだ用水路だったり、そこにかかる小さなコンクリートの橋だったり。
全く愛でるようなものではないのに、はっきりと脳裏に浮かんでくる、それらの幻影には胸が締め付けられるようでした。だって、次にいつ見ることが出来るかわからないから。
それに対して、お友達が話の結びに投げかけてくれた「ふるさとは逃げないから」という言葉が嬉しかった。
話は飛びますが・・・
僕は、小学校を卒業して、そのまま地元の中学校に行くことなく、全国から生徒が集まってくる私立の中学・高校の一貫校に進学しました。そして浪人するため東京に出てきて、そのまま大学から社会人となり今に至ります。
だから、ずっと地元の友人とは疎遠でした。一人転校していったようなものです・・・家はそのままあって、そこに住んでいたけれど、努めて地元の友と交わらなかったから。
受験の重圧でしょうか・・・それも無かったことは無いでしょうが。地元のお友達に声をかけても、一人別の道を選んだ人間のことを、みんなすぐに忘れてしまっているんじゃないだろうか。そんな扱いを受けたら僕は傷ついてしまうだろうなんて、勝手に思っていたんでしょう。その当時は、私立の中学校に進学するなんて言う選択をする人間は、そのあたりでは希少だったし、自分は違う世界の人間になってしまったんだなんて・・・まぁ若気の至りとはいえ、なんと僭越な考え。
それから何年・・・社会人になって30歳を過ぎて暫くたった時のお正月だか夏だったか忘れたけど。
実家に帰って、ふと思ったのです。
今や生活の中心は東京だし、この実家が無くなったら、僕のふるさとは同時に無くなってしまうのかね、これからどんどん薄れていくであろう記憶以外には・・・なんて。
今や、岡山のこの地と僕を結び付けているものは、この家とそこに住む家族だけじゃないかと。
思い立って、当時黎明期だったインターネット(まだ繋ぐとピーガー鳴る電話回線)や妹の持つ情報などを駆使して、かつての友だちを探してみました。
それなりの苦労はあって、これを書けば、また長くなるので省きますが、そのうちやっと一人、二人と連絡をとれるようになり、そうして、そこからまた、そういうお友だちの情報から、また1人、さらにまた1人と連絡が取れるようになって。今では、岡山の実家に帰れば、地元のお友だち10人や20人みたいな宴会が開けるようになりました。
僕のことなんて忘れているだろうなんていうのは、取り越し苦労で、むしろよく覚えてくれている。会っていきなり「声が変わっとる!」なんて言われたこともあります。
自分ですら忘れている、声変わりする前の声を覚えていてくれたのか・・・みたいな驚き。
そんな宴会では、幼いころのことから今のことまで、気兼ねなく何でもお話しできます。みんなそれぞれ大人になって、仕事について、嫁に行って姓も変わった人もいる。でも、その奥には、小学生のころの面影がはっきり見えます。
その多くの地元の友だちのおかげで、僕のふるさとは決して無くなるなんてことは無いと確信し今に至ります。
だからこそ「ふるさとは逃げない」という言葉が、余計に胸を打ったのでしょう。
その遣り取りが終わって、その日は、定例の同好会の稽古日だったので、道場に行って稽古をしてきました。稽古が終わって自席に戻ってきたら、もう真っ暗で誰もいない。
一人で広いオフィスに佇んで、こんなことを書いていると、涙が浮かんできました。
そんなに大げさなことかぁ・・・稽古で前蹴りをまともに受けて頭でもおかしくなったのかも。生徒さんの前蹴りがカウンター気味に入って情けなく後ろに転んじゃったし・・・それなりに恥ずかしかったからなぁ。
外は雨でした
そうでなくても暗い街がさらに暗いのは雨に煙っていたからです。決して私の涙のせいではありません。
長い長い駄文でしたね。